snow in the field

Yukiko Tanaka, pianist

イースターを前に

ある日の夕方、いつも通り地下鉄に乗っていると、一人のホームレスが入ってきました。その人は、乗客一人一人に訴えるような眼差しを向け、腹がへっている、何か恵んでくれ、と言いながら乗客の間を歩いて来ました。彼が私の前まで来た時、ひざまづいて私を覗き込み、「助けてくれ、腹が空いているんだ」と言ってじっと見詰めてきました。顔は汚れ、髪や髭は伸びて、服も破れています。そして凄く嫌な臭いがしました。私はいたたまれなくなって鞄に入っていたクッキーを差し出しました。彼はそれを引ったくりながら、「お菓子やチョコレートはもううんざりだ。もっとちゃんとしたご飯が食べたいんだ。ピザとかハンバーガーとかさ。」と私をなじって去って行きました。私はびっくりしました。彼がお腹が空いていると言うから持っていた食べ物を差し出したのに、どうして逆に文句を言われなければいけないのか。私は憤慨し、しばらくその事が頭から離れませんでした。しかし、少しして、そのホームレスの態度は、神の御前の私の態度その物ではないかと気づきました。

外見こそ綺麗にして着飾っていても、私は自分の内面が嫌な物でいっぱいになっているのをわかっています。嫉妬、短気、強欲、怠惰、好色、侮蔑の念などで満ちた私の姿は、神の目からみたらあのホームレスよりも醜く汚らしいことでしょう。また、神が私の祈りに応えてくれなかった時、また違った形で答えを下さった時、私はどうして思った通りにならなかったのか、こんな結果は今欲しくない、と憤ります。しかし、神は私よりも何が私に一番良いかをご存知なのです。そしていつでも私にとって最善のものを下さっているのです。「人は心に自分の道を考えはかる。しかしその歩みを導く者は主である。(箴言169)」祈りが思うような形で応えられなかったとしても、後になって、私の願っていた何倍も良い物を得ることがあります。その時、私はいつも、ああ、神は私にこれを下さりたかったのだ、私はなんて忍耐がなく、目先の事ばかりに執着していたのだろう、と思い知らされるのです。「あなたが神の御心を行って約束の物を手に入れるために必要なのは忍耐です。(へブル人への手紙10<36)

">私は神の似姿とは程遠い自分姿を憂い、こんな醜い私でも神は愛して下さるのだろうかと問いました。直後に、愛して下さる、という言葉が心の中に響きました。そうです、神は私達罪人を救う為にイエス様を世に送って下さったのです。「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる物が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネの福音書316)」そして、イエス様は、醜く、惨めな私を慰めて下さるのです。ちょうど同じ病気をした事がある人がその病人の気持ちがわかるように、様々な苦しみを受けたイエス様は私の苦しみを分かって下さっているのです。イエス様はこの世で可能な限りの肉体的苦しみと侮辱をうけ、天に召されました。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は蔑まれ、人々から除け者にされ、悲しみの人で病をしっていた。人が顔をそむけるほど蔑まされ、私達も彼を尊ばなかった。彼は虐げられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。彼は暴虐な裁きによって取り去られた。(イザヤ書53節より数章抜粋)」「そこでピラトは、イエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵卒たちは茨で冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、それから、その前に進み出て、『ユダヤ人の王、万歳』と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。(ヨハネの福音書191節―3節)」

このレントの時期、私達は自分の罪とキリストの苦しみを思います。私達の罪がキリストを釘で刺したのです。そしてイエス様は私達の罪と共に死んで下さいました。レントはまた、復活の希望に満ちた時期でもあります。十字架に掛けられ死んだのち、3日目にイエス様は甦られました。そしていつも私達と共に居て下さるようになりました。何と素晴らしい事でしょう。